尖閣諸島沖の200~300隻に上る中国漁船と最大15隻もの中国公船による連日の接続水域・領海への侵入が、日中関係にこれまでにない緊張をもたらしている。これは2016年7月に出された南シナ海裁判(フィリピン対中国)の結果を尊重するよう求める日本の外交攻勢に対する報復であるとの見方がもっぱらである。そうであるとすると、全くの筋違いであることは明らかだが、そもそも南シナ海裁判における「完全敗北」の原因が中国自身の失策にあることも指摘しなければならない。
南シナ海裁判は、国連海洋法条約に基づくもので、中比両国は、ともに締約国である海洋法条約に基づき同条約の解釈適用に関する義務的裁判を受け入れている(第288条)。裁判所に関して合意がない場合には、紛争当事者の一方の提訴で「仲裁裁判」が行われる仕組みになっており(第287条3項)、フィリピンは2013年に中国を相手に一方的に裁判を開始した。これに対して中国は、紛争は交渉で解決するとして、当初から一貫して裁判を受け入れない姿勢をとった。その一貫した態度が傷を広げたのである。
第一に、裁判官の選任である。海洋法条約に定める仲裁においては、紛争当事者の双方が1人ずつの仲裁人を任命し、合意によって他の3人の仲裁人を任命し、仲裁裁判所が構成される。しかし、仲裁に反対の紛争当事者が仲裁人を任命しない場合には裁判所が成立しないことになるので、そのような場合には、必要な任命は海洋法条約によって設置された常設の国際海洋法裁判所(ITLOS)の所長が行うこととされている(附属書第7部第3条(e))。南シナ海裁判では、中国が仲裁人を任命しないので、その任命は当時所長であった日本の柳井俊二ITLOS判事によって行われた(中国はこの点も批判しているが、条約の規定通りであり、バランスのとれた選任でもある)。
管轄権を否定しながら仲裁人を選任するのは確かに矛盾した行動かもしれない。しかし、管轄権の有無を決定するのも仲裁裁判所の役割である(第288条4項)。実際、本件裁判においても管轄権の有無についての判断は、2015年10月に仲裁裁判所によって言い渡されている。中国としては自国の主張を反映させるべく仲裁人を送り込んでおくべきだったのではないか。
この点は、仲裁判断(判決)がどのような形で出されるかという点にも直結しており、判決が全会一致であるか、反対意見付きであるかによって、印象は大きく異なることになる。中国が仲裁人を任命しなかった南シナ海裁判の結果は、管轄権も本案(紛争の実質)も、いずれも全会一致だったのである。
第二の失策は、ポジション・ペーパーに関係する。中国は、管轄権については比較的長文のポジション・ペーパーを発表したが、本案についてはそのようなものを一切発表しなかった。本案についてのポジション・ペーパーを発表することは、管轄権を否定するという自国の立場と相容れないと考えたのであろう。しかし、出廷して本案の主張を行っても敗訴することがある裁判において、出廷もせず、本案の主張をいかなる形でも全く行わないことがどれだけ不利に働いたかは想像に難くない。仲裁人の任命拒否と同様、頑なな裁判拒否が導いた陥穽である。
以上のような失策は、仲裁の結果そのものを左右するものではない。しかし、判決後の中国の政策を大きく制約することになった。中国任命の仲裁人がいれば(おそらく反対意見を書くであろう)、そして中国の法的主張が詳細に公表されておれば、それらに依拠した判決批判が可能となっていたであろう。しかし、そうしたことをしなかったために、全会一致の判決を前にして、それを全面否定するしかなす術はなく、それは法の支配の否定を意味した。責任ある大国にあるまじき態度であるが、それ以外にとる道はなかった。立場の一貫性を必要以上に追求することが、結果として大きなマイナスとなりうることを、国際裁判の経験に乏しい中国は気づかなかったのであろうか。あるいは自己の国力を過信したのであろうか。
2016.08.24